昭和41年08月31日 夜の御理解
御理解に勢をそろえた信心と教えておられますよね。勢をそろえた信心。重たいものでも大勢が一緒に掛け声をそろえて持てば持ち上がる様な道理じゃ。揃うた信心。しかも勢が揃うた信心。そういう信心を信心をさせて頂く中心の人がいつも、願っておかなければならない。ここでならば私、皆さんの家庭ならば皆さん、そこんところを(?)とこう云う事をいうが、その(?)になると云う事。
そこの所を調子を、今なら揃うなといやこんな事じゃ揃わん。どうしたならば揃うだろうかと、と云う様にね。勢を揃えて信心と云う事」。そう云う事だと思う。例えば一家中のものが信心をしておりますというても、てんでんばらばらな信心ではおかげにならない。勢が揃わなければならない。家は確かに一家中で信心をさせて貰っておる。しかも神様の事ならば皆が反対をする者がおらん。
確かに勢を揃えておるごたるけれども、いうなら、大きなものが持ちあがらない。と云う様な、考えてみらなければならない。教祖の神様が、嘘をおっしゃるとは思われん。どこにか勢のそろえ方が、まだまだ足りんのだと云う事を、ひとまず、勢の揃えた信心をさせてもらわなければならない。今朝から、子供達が男の子ばっかり四人で、久留米に遊びに参りました。今年は兄ちゃんのおかげで、夏休みの宿題も早めに出来て、昨日当たりで出来てしまったらしい。
だからいわゆる心置きなく今日は、兄ちゃん引率の元に4人の男の子ばっかりが、本当に男の子ばっかりとかね、ばっかりというのが非常に有難いなあと、揃うと云う事が。こんなに何時もおりますけれども、一緒に揃うてなら例えば御祈念をしておると云う事がない。兄ちゃんを先頭に三人の男の子が御祈念をしておる。しかも念が入っておる。今日は久留米にやらせて頂ます。
本当に、私は4人の子供達が遊びに言わば出て行くのですけれども、何か知らんけれども、私の方が心が弾んでおる。いうなら感動した。是は子供達が遊びに、いうなら。椛目のこんな非常時に御金使いに行きよるのですけれども、それに感動すると云う事はどう云う事だろう。私の心が弾んでくる。揃う。しかも、久留米に遊びに行きよる。ですから、仲よう遊びに行きよる。大、中、小と皆揃うてみると、中々本当に親ながらもう一遍見直したい気がする。
毎日こうあれを見これを見しよるのだけれども、揃うて見ると云う事は中々滅多にない。揃うておると云う事が有難い。それにね、嬉々として、久留米に向かっておるその事が有難い。勢をそろえるとはこう云う事じゃないだろうかと私は思う。一家中の者が信心をしておりますというても、大から中から小に言わば勢を揃えていないのです。勢が揃うとる。しかもそれが、嬉々としておる。
それが例えば遊びに行くでも神様が感動ましますのだから、ましてや是が、信心の(?)例えばなら、私の方が農家なら農家をしておるならばです、兄ちゃんを先頭に三人の弟達が兄ちゃんの後から続いて畑なら、畑を(?)出て行くとする。しかもそれが、さあぁと云う様な勢いで。仕事に出て行くと云う様なそう云う事だと私は思う。ははぁ、如何にも御互い勢を揃えた信心をしておるごたるけれども、その真たるや気持ちたるやばらばらであるならば是ではおかげを受けられない。
心はもう、久留米に行っておる。矢のごとく久留米に向かっておる。その心はひとつである。是だ。勢をそろえて信心して、今までどうにも出来なかったものが、出来る様になる。今まで持ち上がる事が出来なかったものが持ち上げれる様になる。今まで頂けなかったおかげが頂けれるというのはそう云う様な私は揃い方をした時がなる程、勢を揃えた信心、ばらばらでは持ち上がらん。
けれども大勢が掛け声をかけて持てば、持ち上がる様な道理じゃと仰る道理はそう云う事だと私は思う。神様に通う勢を揃えたものでなからなければいかんという事。それが、久留米に遊びに行くのにもです、心置きなく、もう宿題をしておる。今日は兄ちゃんが先頭に久留米にいけれる。嬉々として、喜びをもって久留米に向こうておる。御金を使いに行くのにですら神様が感動しますのであるから、是が本当に(?)でもいくなら、もう、どの位神様が喜ぶか分からん。
それがお広前に向かっておるというならばどの位喜びなさるか分からん。それが信心に(?)例えば一家中でです、何というても御造営が済むまでぞと言った様なです様な、勢いを一家中で揃えておったら、その勢いにです神様が感動しなさらんはずがない。何時も勢を揃えた信心。成程道理は道理なんだ分かって皆んなが大きな石でも大きな物でも、皆んなのものが力を揃えて1,2,3で持てば持ちあがる事は分かっておる。
分かっておるのだけれども、私の方が持ち上がらないとするならばです。そう云う様な(?)かけておるのだと云う事を分からせて頂いた。勉強を済ませてしもうて心置きなく、しかも御取次ぎを頂いて親の許しを頂いて、今からさあ、久留米に遊びにやらせて頂く。久留米見物にやらせて頂く。その心がです、弾んでおる、その心が一つなのである。勢が揃えておる。私はこういう力で、神様に打ち向こうた時にどうにも出来なかったおかげが、どうにも成る様なおかげに成るのだなあと私は実感として感じた。
私はそして後に思うた。兄弟揃うて出て行くのに、感動するというのは、是は私の感動ではないなと思うた。神様の感動だと思うた。一つ折角椛目の場合は是は椛目のまあいうなら何と申しましょう。椛目に特別に見られる情景なんです。月並祭なら月並祭でももう、家族を上げて皆んな(?)でしょうが。はあぁ、あそこの総代さんは熱心だけれども、奥さんが付いて来なさらん。
子供さんが付いて来なさらんと云う事がない。椛目では。もう五年と椛目で信心を続けておるならば、殆どが、一家を挙げての信心になっておると云う事。だから、ここまでのおかげを頂いておるのだから、果たして、その中に嬉々として、椛目に向かうておるだろうか。勢を揃えて、椛目に向こうておるのかと、と言う所を検討して、そこんところを工夫して行かなければならんと、私は思うたですね。
どうぞ